昭和52年10月25日 朝の御理解



 御理解 第26節
 「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 昨日の御理解の中に信心辛抱という、その辛抱が貫かれる。言わば辛抱から生まれてくる体験が積み重ねられると言う事が、お徳を受けると言う事だと。お徳を受けて行かなければ愈々本当の信心、言うならば光を頂かなければ、いかに道を求めると言うても、手探り的なものでは信心が有難いもの、楽しいものになってこないんだと。ただ求道一筋と。ただ行者の求道というと非常に厳しゅうて難しい。
 普通の者では出来そうにない感じがするけれども、光を頂いて道を求めて行くと言う事になると、信心が楽しいものに成って来るんだという。信心が楽しいものと言う所まで高められると言う事は、みやすい事ではないけれども、信心が好きになるという。お参りをする、お話を頂くと言う事だけが好きではなくて、教えを受ける。その教えを行ずると言う事が、楽しゅうなるという。
 昨日研修の時に、信心を楽しむと言う事。昨日の御理解はそう言う事だと。それであちらの言葉を使うと、信心をエンジョイすると言う事になるそうです。道楽と言う事を申します。道を楽すると。道楽者の道楽とは違う。その道を愈々究めて行く楽しみと言う事でしょう。何の稽古でも同じですけども、信心もやはり同じことが言える。愈々道を究めて行く、愈々自分の心の中に点ずるところの光が大きゅうなって行くと言う事が、喜びであり楽しみである。だから辛抱が出来るのである。
 昨日の研修で皆発表して、見事に昨日の御理解を纏めて皆おります。末永先生が発表しております。こう言う事を申しておりました「今日も辛抱させて頂きまして有難うございました」これは開口一番であった。もう私は昨日の御理解はそれに尽きると思うたです。「今日も一日一生懸命辛抱し貫かせて頂きました。有難うございました」と。その辛抱を積み重ねて行く事が徳を受ける事だという表現、それだけでしたけれどももう本当に辛抱し貫いて毎日本当にお礼が言えておらなければ出る言葉じゃないです。
 昨日の御理解を様々に、判るという意味合いにおいてすると、沢山やはりの文章になりますけれども、昨日の御理解の生粋の所はです。「今日も結構な辛抱させて頂きまして有難うございました」と、日々お礼が言えれると言う事なんだ。問題はもうそれに尽きるんです。一日のうちを振り返ってみると、あそこも辛抱しきれないような所もあったけれども、金光様にお縋りし貫いて辛抱さして頂いて、辛抱して良かったというそれが、お礼になっておる。その積み重ねが徳になるのだと。
 もう信心辛抱もこれに尽きるんです。そん時だけの辛抱じゃないです。「今日も一日辛抱さして頂きました」とそれは様々なことがあるでしょう。様々な場合もあるでしょう。それを例えば、先生が一人で教会の御用ですから、御結界なら御結界の奉仕をするというてもです。もうとてもやはりもう眠くなってくる。足が痛くなってくる。そこを辛抱し貫いたその後に、「今日も結構な辛抱さして頂いて良かった。有難かった」と言うのがお礼になってくるんです。
 家内がああも言うた。こうも言うた。けれども黙って治める辛抱を、金光様におすがりしながら何も言わんで済んだ。「おかげを頂いて今日も辛抱し貫かせてもらいました」と。もうそれですよ金光様の御信心は。お徳を受ける道はそれです。今日また失敗しました。今日もまたやり損ないましたと言う様な事が、でどんなに良い信心が出来よるようにあっても、それでは言うならば、積み上げて行く徳になりませんものね。私はそういう信心をです。「信心に連れはいらん」と言う事だと思うです。
 これは「私がこうしてるからあんたもそうしなさい」と。もう自分一人が道を楽しんでおるという姿です。同時に最後に結んであります、ここんところちょっと違和感がないわけじゃないですけれどもね。この信心に連れはいらんと言う様な表現をなさっておられて、最後の所に「日に日に生きるが信心なり」とはどう言う事の繋がりがあるのだろうかと思うくらいです。
 けれども末永先生のその一言の表現というものは、それが出来ておらなければ出来ませんし、同時に「日に日に生きるが信心なり」という信心が出来ておらなければ、言葉には出て来ないです、そういう言葉は。「日に日に生きるが信心なりという」のは、日に日にが命懸けと言う事なんです。今日も一日お生かしのおかげを頂いとったけんそれが信心と言う意味じゃないです。
 一日というもの一切をそこに無にする。空しゅうする。私というものを空しゅうする。私というものを空しゅうしとらなければ、辛抱し貫ける事じゃない。黙って治めると言う事でも、自分を空しゅうするところに出来る修行である。その自分を空しゅうすると言う事が、我情を捨てることであり、我欲を捨てる事であるから、おかげなんです。私は昨日、末永先生のその一言を聞いてから「もう今日の御理解は大体その一言が言えれるために、信心辛抱の稽古をするんだよ」と言うて、皆に話した事でした。
 本当に今日も辛抱し貫かせて頂いて有難うございました、もうこのお礼が言えれる時の有難さというものは、もうとてもとても体験した者でなからにゃ分からんです。何でもない時の辛抱ならいざ知らずですけれども、それこそ様々な事があります。けどもそこを辛抱し貫くというおかげを頂いて初めて、今日も辛抱し貫かして頂いて有難い。成程これが積もり積もって徳になるんだなと感じさして頂く程しの、有難いものが頂けるのです。それが私は今日は信心に連れはいらんとても連れどもあって出来るこっちゃない。
 同時に最後に締めてある所の、「日に日に生きるが信心なり」というこの御教えがです。もう実に生き生きとして、教祖の御教えは素晴らしい事を感じさせます。命懸けというと、大変こっきり修行ですけれどもそれが楽しめれる。所謂道の信心を以てエンジョイすると言う事になる。そういう信心からでなからなければ、生まれて来ないと思います。私はその時聞きながら大変感動しました。
 冥目してからその事のお礼を申さして頂いとりましたら、黒衣を着てそりゃ誰かか分からんけど、黒衣を着て袴を長く履いておりますから、片一方の足をちょっとこう、袴の下から覗いておるところを頂いた。片一方の歩いておる姿でしょうね。だから片一方は袴の下にある。片一方は袴の裾にちょっと出ておる。それが真っ白い足袋を履いておるところを頂いたんです。
 どんなに素晴らしい黒衣に身を固めて、一生懸命神様に向こうておるかのようであっても、ならその出ておるその足がもしちょこっとではあっても、汚れておったらどうでしょうかね。「あっちは先生あげんとかばあるばいな」ちゅう事に成って来る訳です。所がちょこっと覗いておるその真っ白の足袋がね、覗いておる所でも、言わばその先生に対する、言うならば魅力というかね、素晴らしいというものがもう相手に与えずにはおかない、そういう感じの御心眼頂いてね、これはお道の教師だけの事じゃない。
 信心させて頂いておれば皆そうです。金光様の信心しよって、どうしてあげなこと言うたりしたりするじゃろうかと、言う様な事やったら、もうその人の信心についてくる人はないです。いくら勧めてもついちゃこんです。けれどもどことはなしにもう本当、素晴らしか信心してござる。「本当にあそこんところは誰でん出来んとこじゃんの」という、ちょこっとした事が、ちらっと覗いてご覧なさい。
 もう本当に素晴らしい魅力です。そういう信心がです。今朝の御理解であります所の、「信心に連れはいらん」と「ひとり信心せよ」という、その一人信心さして貰っておる信心の味わいを、一人で言わば握っておると言う事になりましょうかね。悦に入れれる信心。所謂信心を楽しんでおる。そういう信心は本当にその事に一生懸命、言うなら命懸け。「日に日に生きるが信心」とはそう言う事を言われておるのであると思う。
 「日に日に言うなら生きるが信心」とは、だから日に日に死んで行くという、空しゅうして行くと言う事が、信心だと言う事になるです。今日一日そしてもうそれは明日のものではない。明日は明日の信心がある。だからこそ日に日にさらが信心が生まれてくる訳なんです。だから信心の一つの段階を追うてですけれども、一人信心が出来るような「日に日に生きるが信心なり」の内容が判る様な味わいの信心をさせて頂きたいですね。
   どうぞ。